
熊野三山と中辺路(なかへち)を歩く
笠原 弘邦
熊野は山と海の幽玄神秘な聖域である。北に大峰・大台ケ原・果無(はてなし)の険阻な山脈を負い、
南は黒潮洗う補陀(ふだ)洛(らく)浄土の海を抱く。東は熊野灘沿いに伊勢の大神宮に続いており、西
は熊野の山々が重畳と連なっている。
熊野のクマは、地の果て、隈野の意味と「カミ」の意味とがあるという。即ち奥深き所、神々の住む
ところという意味を持つ。
この、人の通わぬ日本の奥深き地、熊野の自然が持つ神秘性や霊威を、山(神倉山(かんのくらやま)
の磐座(いわくら))や川(音無川(おとなしがわ)と熊野川)、滝(那智四十八滝)に神性を感じ、祭
り鎮めたのが熊野三山の起こりではないだろうか。
そうして、その神々は平安時代末に本地(ほんじ)垂迹説(すいじゃくせつ)の影響を受け、祭神の本地
(ほんじ)(本体の事)として薬師如来や阿弥陀如来、千手観音の仏を習合したのが三所権現になったわ
けである。三所とは新宮、本宮、那智の三社であり、権現とは仏が仮(権)の神の姿に扮して現れたと
いうことである。
正に熊野は神の国であり、仏の国である。そして木の国でもあり、海の国でもあるのだ。
時奇しくも平成十六年七月七日、私が還暦を迎え、熊野古道の旅を思い立ち出発した八月五日の一ヶ
月前に『紀伊山地の霊場と参詣道』として世界遺産に登録された。即ち「熊野三山・吉野大峰・高野山」
の三大霊場と、そこに至る六本の参詣道「中辺路(なかへち)・小辺路(こへち)・大辺路(おおへち)・
大峰奥駈道・伊勢路それに高野山町石道(ちょういしみち)」である。
これはスケールの大きさと、宇宙や自然に対する信仰を表す文化遺産として、世界的にも珍しいとさ
れる。また三つの霊場は、それぞれ神道・修験道・真言密教と異なった信仰であることもユニークであ
るといえよう。
(T)那智山
熊野三山のひとつ熊野那智大社は、那智山の奥深い山中に鎮座している。那智山は、そこ一帯の山域
の総称である。北の烏帽子山909mと東の光ヶ峯686m、それに南西に聳える霊峰妙法山749m
に囲まれた山域を指す呼称である。妙法山は、太地町から勝浦町一帯にかけての山麓に住む人々の先祖
の霊が祀られている信仰の山だ。羽山信仰の地であり、平安時代初期、空海が開山したと伝えられる阿
弥陀寺と那智大社の奥の院がある。
那智湾に臨む浜ノ宮の海岸(JR那智駅)から那智山まで、距離約7km標高差340mを歩いていっ
たが、途中の井関の集落の旧道角に「左妙法山」と刻まれた石の辻標を見つけた。かなりの年代を経た
石碑であったが、そこから真西に遠く妙法山が望まれた。平安の昔から、死者の霊を弔うため、村人は
ここから供物を持って歩いていったのだろう。
那智大社は「大門坂」から始まる。ここは最近TVでよく放映されるので有名になったが、実際に歩
き登って受けた感動は、映像からでは得られない。入り口の鳥居をくぐり、俗界と霊界(聖域)を境す
るという朱色の「振ヶ瀬橋(ふりかせばし)」を渡ると、巨大な一対の杉の大木が目に飛び込んでくる。
幹周8.5m、樹高55mある、その夫婦杉は樹齢800年を超えているという。その先大社までの6
00mにおよぶ熊野古道は、樹齢2、300年の杉の古木200本が並ぶ参道で、苔むした石畳の階段
が木漏れ日に輝き、森閑とした霊気に包まれている。
那智大社のご神体は那智大滝(なちのおおたき)である。天然記念物に指定されている那智原始林の狭
間から、落差133mを流れ落ちるその滝は、遥か離れた太平洋の沖合いからも眺められるという。い
にしえ人は、那智の滝を「天と地を結ぶ神」と信仰していたのだ。
仁徳天皇5年(317年)、那智大滝を神格化した飛瀧(ひろう)権現を祀る社殿を那智山中腹に造り、
熊野夫(ふ)須美神(すみのかみ)を併せ遷し祀ったのが熊野那智大社の起こりだという。その後、仏教や
修験道の隆盛とともに熊野権現として崇められ、全国に勧請(かんじょう)された4000社以上の熊野
神社の本社として現在に至っている。
(U)大雲取越から小雲取越へ
その昔、京の都から熊野三山に詣でた参詣道は、下鳥羽から船に乗って淀川を下り、摂津の国から陸
路、紀伊路を田辺まで海岸沿いを歩き、田辺から中辺路を東方の本宮大社に向かって山路を行く順路で
あった。本宮からは熊野川を船で新宮まで下り、新宮からは熊野灘に面した浜沿いを勝浦まで歩き、そ
こから那智山へ登って行ったのである。ここで熊野三山の参拝が終わるわけであるが、帰路は時代によ
って変わったらしい。
建仁元年(1201年)の後鳥羽上皇(1180〜1239年)の御幸(ごこう)の時は、那智山から
大雲取越・小雲取越の険阻な山路を越えて再び本宮に戻り、後は元来た道、中辺路を通って京へ帰った
と、随行した藤原定家の旅日記「明月記」に書かれているが、大層難儀したらしい。
大雲取越への登り口は、那智大社の隣にある西国巡礼一番札所の青岸渡寺(せいがんとじ)の裏手にあ
る。そこから本宮まで、延々30kmのほぼ尾根沿いの山道を行く。詳細は別稿用紙55枚に書いたが、
本稿では紙数の制限から簡単に述べたい。
旅において途中で休息を取りたいのは、今も昔も変わらない。その場所が数々ある茶屋跡であり、旅
籠跡である。大雲取越では、順に登立(のぼりたて)茶屋、船見茶屋、粥餅茶屋、地蔵茶屋、越前茶屋、
楠(くす)の久保(くぼ)旅籠、中根の宿、市坪の宿と続き小口(こぐち)の宿で初日が終わる。二日目は小
雲取越で、椎(しい)の木茶屋、桜茶屋、石堂茶屋、松畑茶屋と続き請(うけ)川(がわ)の宿に出て本宮に
至るのである。そこにはそれぞれ色々な逸話が残っているが、それは今回省略して、途中の絶景ポイン
トを述べたい。
最初のビューポイントは、船見峠883mである。ここからは、今朝出立した那智山の奥に妙法山が
くっきりと望め、更にその奥方に森浦湾を囲むように伸びている太地(たいじ)町の燈明崎が遠望される。
熊野灘の入江になっているそこ太地湾は紀の松島といわれる名勝で、西国図会にもこの峠からの眺めに
ついて「山嶺より遠く海上を望めば、島々の形態さながら刻むが如く、島がくれ行く帆船はあたかも白
扇を散らすに異ならず、その絶景筆紙に盡くしがたし」と書かれていることが、なるほどとうなずける。
もう一つのポイントは、小雲取越にある「百間ぐら」という絶壁である。そこは如法山609mの真
西にある古道がヘアピンした所で、百間もあるとは思えないが、その崖上からは紀伊山地の奥熊野の山
々が遥か彼方まで、幾重にも幾重にも重なって望まれる。熊野とはこういう所なのか、と実感する景観
である。
(V)大日越から熊野本宮大社へ
本宮町は温泉の町である。それは川湯温泉渡瀬(わたせ)温泉それに湯峰(ゆのみね)温泉の三つの温泉
郷から成っている。私が宿泊したキャンプ場「木魂(こだま)の里」は川湯温泉にあり、使用料は一張り
一泊600円であった。そこから湯峰温泉までは徒歩30分ほどの所にある。
湯峰温泉は開湯1800年という日本最古の湯場だそうで、熊野詣での旅の疲れを取るとともに、参
詣のための禊の湯垢離場として栄えた。今は14、5件の旅館や民宿が山裾に密集している温泉街で、
観光地としてかなりの賑わいだ。中心部にある東光寺や湯筒、一遍上人名号碑など見所もかなり多いが、
一番の目玉は「小栗判官と照手姫」の恋物語だ。その小栗判官が湯治して元の姿に蘇生したという「つ
ぼ湯」が現存しており、入湯が可能である。
温泉街の裏側の小高い山が大日山369mで、そこを登りはじめて直ぐに湯峰(ゆのみね)王子が祀ら
れている。そしてそこを通って大日山を越え本宮へ出る山越え道が、古道「大日越」である。南紀を思
わせるシダや暖地系の樹木が生い茂り、大形のきのこイグチ類がたくさん生えていた。山を越えると熊
野川が見えてくる。その熊野川と支流の音無川との合流地点の三角州に、明治22年まで存在していた
熊野本宮大社跡である「大斎原(おおゆのはら)」がある。
当時の大社は、上四社・中四社・下四社の全部で11棟の豪華絢爛な社殿であったが、未曾有の洪水
で崩壊し、辛うじて災害を免れた上四社3棟が約700m北方の高台に遷座されたのが現在の社殿であ
る。それは、向かって左から第一、第二、第三、第四殿となっており、その第三殿が正殿の証誠(しょう
じょう)殿(でん)である。そこに主祭神である家津(けつ)御子(みこの)大神(おおかみ)が祀られている。
それが本地垂迹説の隆盛によって、阿弥陀如来を本地とし熊野大権現と称えて崇拝し現在に至っている
わけである。
社殿の創建は第十代崇神(すじん)天皇65年(紀元前33年)と古文書に記載されている。