きのこ川柳十句(トーク)
                                                                                         相馬 直茶(なおちゃ)

人は好きでもないことに取りかかるのがなかなか億劫(おっくう)なものです。(例(たと)えば私に
とっては寝ることとか起きることがそうです。)それでも義務感から無理して取りかかっているう
ちに面白くなることもあります。
しかし一向(いっこう)に面白くない場合、それに比例して懶(ものぐさ)精神が優位となってきます。
これが恒常的になると肉体面にも徴候と症状が現れてきますが、それを慢性(なん)倦怠性(にもし)
体調(たく)不良(ない)症候群といいます(勝手に付けた名前ですが…)。これは鬱(うつ)病の前駆
(ぜんく)症状かもしれません。ちなみに飲みすぎた翌日の私は大概このような急性症状を呈(てい)
します。

 茸(たけ)狩りと聞けば体調回復し           直茶

蓋を開けて見なければ分らないという話は私のキノコ採りに関する限り大いに当て嵌(は)まります。 
――しばしば期待は外(はず)れます  見込みの十分あるところ
      そしてしばしば叶(かな)います  それは案外どんぴしゃリ  
           お寒い希望のあるところ  つまり絶望のど真ん中――
  (『終わりよければすべてよし』2−1直(なお)訳)
当てと褌(ふんどし)が向こうから外れてくれるせいか、もっぱら犬棒式(いぬぼうしき)(?) のア
テドなき彷徨(ほうこう)を楽しんでおります。

 闇雲(やみくも)の足で開けたキノコ運           直茶

身ひとつで初めての土地を(そして勿論(もちろん)かつて見知った土地をも)気ままに景色を愛
(め)でつつ散策することのうちには、孤独を凌(しの)ぐ自由の喜びとトキメキがあります。キノコ
ばかりに気が向くのは悲しい性(さが)でしょうか。それでは本当の喜びの半(なか)ばにも満たない
…と他人(ひと)は言うかも知れませんが、自意識の消え入るほど五感を完全燃焼させればすなわち
それが三昧(さんまい)の境地なのであります。

 小便をしつつ辺(あた)りも探りつつ           直茶

世の中には毎年垂涎(すいぜん)ものの麗菌(れいきん)を籠(かご)一杯に採ってくる御仁(ごじん)も
おられますが、○力も○力も○力も並(なみ)以下の者(私)にとって夢に憧(あこが)れはするものの
殆(ほとん)ど縁(えん)のない話にも思えてくるのです。
 
 根性の及ばぬ先の夢キノコ           直茶

何時でも何処でも手に入る物については執着もなくなる分、有難味(ありがたみ)もしたがって幸せ
も薄れがちとなります。かつては無尽蔵(むじんぞう)とも不易(ふえき)とも信じられた豊饒(ほう
じょう)なる大自然は、人類繁栄の代償として収奪と汚染の限りを蒙(こうむ)り、その自浄力・復
元力において危殆(きたい)に瀕(ひん)するに至っております。結果として、現代人は自然の有難味
に危機意識と共に目覚めることとなりました。(しかしたとえ人為を離れたとしても『縁(えん)瀞
(とろ)屁(ぴ)』の増大法則が人類に暗澹(あんたん)たる未来を用意している事は確かです。我が家
においても偶(たま)に訪れる局所的秩序を嘲(あざわら)うかのように乱雑度は増す一方ですし…。)
ともあれ自然がいかに破局に向かおうとも自力・人力で回避できる内は何とかしなければなりません。
有難味(と幸せ)に関して申せば、有触れた当たり前のもの及びことの不思議と有難味に目覚め、そ
れを自覚し尽くす中にこそ幸せの鍵がありそうです。さもなければ幸せとは個人的安寧(あんねい)
・集団的野心の飽(あ)くなき排他的充足ということになりましょう。 ――それは結局衝突と挫折、
怨恨(えんこん)や欲求不満を引き起こし、有形・無形の暴力に捌(は)け口を見出すこととなるでし
ょう。
……それはさておき『執着のなくなる程』沢山手に入れてみたいものの筆頭(ひっとう)は巨万の、
それとも些少の富でしょうか。あるいは永遠の、それとも些少の若さでしょうか。はたまた(慎(つ
つ)ましくも)かつて夢に見たあの麗菌でしょうか…。

  採り飽(あ)けるキノコ見送る余裕ぶり       直茶

無視できないのが山歩きにおける事故、災難です。『あると思うな親と金、ないと思うな縁と災難』
といいますから、簡単な注意で『大難(だいなん)が小難に、小難が無難(ぶなん)に』なると思って
事前に用心・準備しておくのに越したことはありません。危険はそれが危険と判らなければ判らな
いほどより危険なものとなります。――家庭サービスも小忠実(こまめ)にしようではありませんか…。

 クマさんの逃げた幸運つゆ知らず      直茶

名無しのキノコなどには手を出さなくても、知っているつもりの紛らわしいキノコで間違いを起こ
すことがあります。自分だけで済む話ならまだ良いのですが人まで巻き込んでしまうと困りものです。
可食菌(かしょくきん)であっても安易に人に勧めない方が良いのは勿論(もちろん)、自分でも疑わし
いものについては実験台になるのはよしましょう。万一中毒したら――大袈裟(おおげさ)に騒ぎまし
ょう。

  クサビラに中(あた)れど面目(めんぼく)痩(や)せ我慢       直茶

やはりと申しますか、当然と申しますか…。キノコ通(つう)といわれる人でも、よく知らないキノコ
はたくさんある筈なのですが、自信たっぷりに説明されると妙に納得させられてしまうものです。反
対にあまり自信なさそうに言われるとこちらも頼れなくなります。もっともこちらが然るべき閾値
(いきち)に差しかかると、自信に満ちた先生への信憑性(しんぴょうせい)にも仄(ほの)かな翳(かげ)
りが見えてきますし、また逆に自信のなさそうな先生のほうに却(かえ)って信頼が置けそうな感じも
してきます。

  キノコ通蛮勇(ばんゆう)にても捌(さば)きおり          直茶

このタケはいつか見たっけ あ〜そうだよ〜 思い出しま〜す 赤くなりま〜す 
――北原白秋/作詞 山田耕筰(こうさく)/作曲 相馬直茶/改竄(かいざん)『このタケ』――こう
いう具合にすぐに訳の分るものは別としまして、判らないキノコは結構あります。判らないからとい
ってブン投げてしまうと何時までたっても判らないので、せめて特徴を正確に記録してストックして
おきましょう。できれば同好会で共有しましょう――何時の日か分り合えるその日の到来を信じて…。

  通(つう)泣かす珍菌雑菌不明菌         直茶

遠い遠い紀元前5、6世紀の昔、孔子様は『知る者は博(ひろ)からず、博き者は知らず』と宣(のたま)
われました。『知る』というのは生きる道を指すのでしょう。該博(がいはく)な知識も美徳の代わり
にはなり得ません。培(つちか)われた美徳も真正の愛にはかなわないことでしょう。どんなに道草を
食おうとも、人はもとの正しい道に戻るほかないのでありました…。

  達人の域を目指して菌蕈道(きんじんどう)         直茶